全世界の言語における有心物と無心物のちがい

有心物と無心物のちがいは、数え方を離れてみる場合は、かなり全世界の言語に普遍的で、英語でも全然ないことはない。たとえば、who 対 whatの間、あるいはsomebody対somethingの間などには、区別がある。

 なお、言語によってはせっかく有心物・無心物に分けても、実際に有心物と無心物のちがいに対応しない例はたくさんある。北米のアルゴンキン語では、有心物の方に、動物のほかに植物の一部とヤカンが含まれているそうだが、ヤカンとは妙なものをえらんだものだ(E・A・ナイダ『新言語学問答』)。

 このごろ日本語と同系かという論が出てやかましいインドのドラヴィダ語族は、有心物・無心物の区別が男性・女性の区別とがらみあって来て、むずかしい関係を作っている。たとえば、ゴーント語とかクー語では無心物と女性とをいっしょに扱うきまりがあるそうだ(メイエ、コーアン共編『世界の言語』)。

 ところで、物の有心物・無心物の分類と、男性・女性との分類がからみあい、最も複雑な文法体系を作っていて有名な言語が、アフリカ南部のバントゥー語族である。その一つにズールー語があるが、ここではすべての名詞が、人に関するもの、木などに関するもの、道具に関するもの……などの部類に分かれ、それぞれに形容詞でも動詞でもすべてちがった形をとる。

  「われわれのすてきな人がやって来た」ということを言おうとすると、「人」はumuntuというが、このumuntuの最初のにumuという部分が変形して「われわれの」にもつき、「すてき
な」にもつき、「やって来た」にもつく。つまり、

  人が、われわれの人だぞ、すてきな人だぞ、やって来たぞ、それは人がだぞ……

というように言うのだそうだ。そうして、もしこの[人]の部分が、「少女」(intombi)となれば、umuの代わりに別のinという部分が変形して、次々の言葉にくっついていく。つまり、

  少女が、われわれの少女だぞ、すてきな少女だぞ……

というようになるというからめんどうだ。

 イェスペルセンは、このゴチックの部分を<思い出し部>(reminder)と呼び、ラテン語などの一つの名詞につく冠詞や形容詞の語尾変化はこれと同じもので、あまり進化していない言語である徴証ときめつけた。