難聴は程度がさまざまで、軽度や中等度の難聴は、知られたくない、かくしたい。そしてある程度かくせることが、補聴器をつけたくないことにつながっているようである。難聴は周囲の人にも、自分自身にもわかりにくいし、わからせたくないという事情が、からんでいる。

 

 難聴者は自分の難聴を自覚していないことも多い。話しかけられてもきこえないときは、自分が話しかけられていることすら自覚できない。つまり、一人でいるときには障害者ではないとさえいえるところがある。また難聴者は、話しかけられても、その話が理解できず、反応できないので、相手はじれったくなる。お互いに意思の疎通ができない。先天性高度難聴者では、早期から訓練をおこなっても話し言葉に障害をもつ人が多い。彼らの話し言葉が嫌悪され、からかわれ、軽蔑される。さらには、知的障害かと誤解される。

 

 人間は言葉の障害に偏見をもちやすい。ベートーヴェンは耳がきこえなくなっても、すばらしい音楽を作曲したという話が人口に膾炙している。そのため、ベートーヴェンのように神経を集中すれば、人間にはできないことはないのだと田心いこんでいる人もいる。これは、きこえないことの深刻さを理解してもらえない事例ともいえる。

 

 難聴者は周囲の人の同情をひかない。呼んでも返事がないと、いじめにあうこともある。これは差別されることでもある。こういう事態にたいして、難聴者はどうしてよいかわからない。どのように返事をすればよいのか、どうすれは「正しい」発音で声が出せるのかわからない。不明瞭な発音による不子分な反応は、ますます理不尽な差別を受けるという悪循環をくりかえす。差別を受けるだけでなく、会議などでは即時の反論ができないので、不利な立場にたたされてしまう。そこで難聴者は、しばしばきこえているようなふりをする。あるいは、そのときだけ、たまたまきこえなかったようにつくろう。こうして多くの難聴者は社交を避け、一人の世界にこもるようになる。

耳科学-難聴に挑む  鈴木涼一、小林武夫著より